ポルカを踊れ

躁と鬱の狭間で。

生い立ち①

両親には幼い頃から苦しめられた。

私は私のペースで生きていくことを許されなかった。私の感情も尊重されなかった。

両親にはそれぞれ自分の主張があり、どちらかを選ぶことを迫られた。

私は母よりの考え方ではあったが、強制されることは好きではなかった。

母はとにかく母のペースで生きるように求めてきた。母のやるべきと思うことを、母の思うタイミングで。

要は母の感情で振り回された。今日はよいことでも明日はよくない。いつも母の顔色を伺っていた。

それで私は、自分が何が好きなのか、何がしたいのかをだいぶ大きくなるまでわからずに育った。自分について知る暇がなかった。周りばかり見ていた。

私と母はある勉強をしていた。私はそれが決して嫌いではなかったが、母とする勉強は大嫌いだった。母は一切私の考えを理解しなかった。

本当は自分の自由な考えを述べることを推奨されていたが、母は字面を追うことしかできなかった。私は自分の気持ちを伝えたが、母は黙り込んでしかめ面で文章を読んでいた。私は字面を棒読みするしかないと悟った。そんな勉強は苦行でしかなかった。

母は自由に暮らしていた。外出しては夕食には遅い時間に帰ってくる。そして父に文句を言われる。文句を言い返す。夕食後は疲れて寝ている。夜中に起きて勉強する。私と過ごす時間はほとんどなかった。

だが、私が他人に依存することは許さなかった。特に母と同世代の女性と仲良くすることを嫌がった。でも二十代前半までは一人母と同世代の女性の友人がおり、親切にしてくれ、私の母についての愚痴を聞いてくれた。

その後移転し、移転先ではそのような人と出会えず、その友人とも疎遠になってしまった。移転当初、私は元気だったのでいろいろなことを頑張っていたが、無理をしていた。

数年後に体調を崩して病院に行った。診断は鬱病。いつかそうなるだろうと私は中学一年生の時に思っていたが現実となった。抗うつ剤眠剤抗不安薬などを飲んだが特に良くなる気配はなかった。

ただ病名の告知や薬を飲んでいることで両親からのプレッシャーが弱くなりありがたかった。また医師の勧めもあり、実際両親を責めた。あなた達のせいで私は病気になったのだと。それはある程度の効果があり、父はほとんど私に何も言わなくなった。でも母はあまり理解しなかった。母からは断続的にプレッシャーをかけられた。でもそれがプレッシャーだとは認識していないようだった。

ずっと母のことはおかしいと思っていた。あまり言葉が通じない気がした。マイペースと言うにはマイペース過ぎた。ある時母の性格や行動についてネットで調べた。発達障害。そうかもしれないと思った。

ある時発達障害の人が書き込んでいる掲示板で、自分を発達障害と名乗る人と会話ができた。母のことを伝えると、恐らく同じ発達障害だと思うとのことだった。当時なんらかの発達障害であると特定した記憶があるが、今となっては何だったのか思い出せない。ネット上にその発達障害の診断テストがあり、母にやらせたところ該当するという結果が出て、自分は発達障害だと思うと言われた。ただ、言われたところで何も打つ手がなく、時は過ぎていった。②に続く。